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1971年:
インドネシア バリ島 ウルワツ
シーン:
「モーニングオブジアース」
撮影:
アルビーファルゾン デビッドエルフィック
サーファー:
ラスティーミラー スティーブクーニー
映画「モーニングオブジアース」はアルビーファルゾンとデビッドエルフィックが1970年トラックスマガジンを創刊した翌年発表された。ナレーションはなく音楽と歌詞が意味を表現する。当時はニューウエーブな映画として注目された。
撮影は世界各地で行われたが、ハイライトはバリ島での初めての撮影とウルワツでの初めてのサーフィンであろう。その象徴的シーンがこの1枚の写真である。
この写真は映画のポスターで、その後DVD、ビデオ、CD、本、Tシャツの表紙にもなっている。オーストラリアのサーファーなら誰もが知っている1枚の写真だ。
左手のサーファーはラスティーミラー、サンディエゴでUSSA等主要な全ての試合を制した60年代アメリカのチャンピオンである。
一方、右手のスティーブクーニーは当時15歳、シドニーノースナラビーンのホットグロメッツ。兄ブッチーク-ニーは60年代後半全豪ジュニア2位の名サーファーである。ちなみ1位は常にウエインリンチであった。
1969年、70年とスティーブはアルビーに連れられオーストラリア東海岸を撮影旅行に同行している。当時13歳、ノースナラビーンでは上手いグロメッツとして知られていたが、他では知名度ゼロのサーファーを選んだのには理由がある。
それはさて置き、世界で初めてバリ島の秘境ウルワツをサーフィン使用とする全米チャンピオンと若15歳のスティーブ、2人は6フィートオーバーの白波がブレークするアウトリーフを目指して一歩一歩足元を確かめるように浅いリーフを歩く。先にラスティーミラーが歩く。後を行くスティーブクーニーは見た事ない大きく完璧に崩れる波に唖然としたと言う。しかし最初にテイクオフしたのはスティーブであった。
彼はその32年後2003年に「ウル32」を製作した。現在もナラビーンの丘の上からポイントを一望出来る家に家族と暮らす。ラスティーミラーは70年代残半にオーストラリアへ移住をして現在はバイロンベイ近郊に暮らす。
まさにオーストラリアサーファーのインドネシアアタックのキッカケとなった1枚の写真・・・時1971年、アドベンチャーインパラダイスの幕が切って落とされた瞬間である。
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ナレーション,サブタイトルは一切なし、ついでに1台の車も登場しない。映像と音楽と歌詞の見事なまでのシンクロナイズがサーフィンの最も美しい瞬間を映し出す。
60年代半ばから70年代前半にかけての世界に浸透した自然回帰主義、ヒッピーカルチャー等の思想は、オーストラリアの海岸線でカントリーソウルサーフィンの礎を創り出した。そのニュージェネレーションのライフスタイルをドキュメントするモーニングオブジアースはサーファだけでなくノンサーファーにも深く受け入れられた。またサイケデリックな色彩を用い自然の美しさをサーファーの視点から捕らえた映像は今以て新鮮である。
オーストラリアで最大の興行収入をレコードした作品である。また、サウンドトラックレコードも当時の20万ドルの売上を記録。G・ウエイン・トーマスが歌う「オープン・アップ・ユア・ハート」は全豪シングルチャート1位を記録、これによりサーファーが音楽市場に影響を与えている事が実証された。
撮影は世界初のバリ島ウルワツを始めオーストラリア、ハワイなどで行われたが「エンドスサマー」のような旅が目的でなく、むしろそこに暮らすサーファーのライフスタイルを描いている。ホームグランド、キラで時代を変えるサーフィンを繰り広げるマイケル・ピーターソン、バイロンベイや東海岸を始まったばかりのショートボードで走るナット・ヤング、世界で最初にバリ島のウルワツを滑る若干15歳のスティーブ・クーニー、パイプラインのジェリー・ロペス、ロッキーポイントを攻めるテリー・フィッツジェラルド、どのライディングをとっても歴史に刻まれるものばかりである。
モーニングオブジアースこそ永遠に色褪せないオーストラリアが誇る最高のサーフィンムービーである。
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