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モーニング オブ ジ アース


白のベルボトムに長袖のTシャツ姿で撮影するアルビー・ファルゾン。1971年バリ島でサーフィン映画をすでに撮影してたというから驚きだ。

日本人が初めてバリのウルワツを目撃したのは1976年、出川さんだったそうだ。その翌年SW誌が抱井、添田、市川等のトップサーファーに佐藤伝次郎、畠山のフォトグを送り出している。



制作者について・・・・・・

1961年USA参戦から始まったべトナム戦争は、世界中に反戦運動を起こした。本国USAではヒッピーカルチャーが反戦旗手として台頭、ベトナムの最前線に若者を送り込まれるオーストラリアやニュージーランドは、第1次、第2次世界大戦で多くの若者を失った経験と反省から反戦運動は激化の一途を辿る。

1960年代、オーストラリア・サーフィンワールド誌ボブエ・バンスのもと修行を積んだフォトグラファーでサーフィンジャーナリストとして確立した
アルビーファルゾン。同じくサーフィンワールド誌の編集に携わっていたジョン・ウッツグと「ホットジェネレーション」「エボルーション」とサーフィンフィルムを制作していた弟のジョン。シドニーで音楽誌"ゲットセット"を成功させたデビッド・エルフィック、、、

この3人がシドニーノザーンビーチーズの北の果てで出会い、今もってオーストラリアで最もラジカルなサーフィン誌"TRACKS"を創刊したのが事の始まりである。

トラックスは雑誌作りと平行としてサーフムービーを撮り始めた。監督はアルビー・ファルゾン、プロデューサーはデビッド・エルフィック、ウッツグはすでに自分のフィルムを回していたのでモーニングオブジアースには参加しなった。

ちなみに彼の1971年度作品「シーオブジョイ」にはモーニングオブジアースに繋がる雰囲気が漂うのが、時代を象徴した結果であろうか。

アルビー・ファルソンデビッド・エルフィック、この2人こそオーストラリアのサーフィンの精神的基盤を築き上げたといっても過言ではない。




プロデューサー:デビッド・エルフィック


―先ずサーフィンとの関わりについて教えてくれますか?
DE-シドニー・イースタンサバーブのマルーブラビーチに生まれ育ったから、子供時代から海が遊び場所だったんだ。それは1950年代の事で、60年代に入ってサーフボードに乗るようになったんだけど、決して上手いボードライダーではなかった。当時アルビーは優れたサーファーでサーフィンワールドをボブエエバンスの元、引率していた。

―そして1970年にTRACKSマガジン(今でも最大の発行部数のサーフィン誌)を創刊したんですね。
DE−その前に"ローリングストーン誌"と契約して"エボルーション"という音楽誌を出したが成功しなった。次に"ゴーセット"という音楽とサーフィンのテイストを織り交ぜた週刊誌を出したんだけど、これが大成功。ベトナム戦争への反動がカウンターカルチャーとして世界に浸透していた時代だよ。ヒッピーカルチャーはオーストラリアで広く受け入れられた。国民気質に合っていたんだろうね。それに60年代、多くのオーストラリアの若者が徴兵でベトナムに送り込まれUSAの最前線で死んでいった。いつ自分に徴兵命令が来るか?そんな時代だよ。アメリカのカウンターカルチャーは音楽やニュースで伝えられ我々オージーのある種の理想郷があったから" ゴーセット"は受けた。その後、当時のサーフィン勇姿2名から僕に話がきたわけさ。

―当時のサーフィン誌(今はない)とサーフィンワールド誌(現在も人気が高い)ですね。
DE−ああ、そうだね。当時どちらも香港とかシンガポールで印刷していたんだ。最近でもそういう事はあるけどね。だから入稿してから本になるまで6ヶ月かかることもある、つまり写真集ならいいけどニュース性なんて欠片もない退屈なものだった。情報を早く伝えるために我々は新聞のタブロイドスタイルで印刷したんだけど、最初は雑誌の取次ぎが「こんなもの扱えない」と言い張ったが、「お前の息子はサーファーか?だったらTRACKSを買うぞ」、そんな感じで取り次ぎは始まったんだけど、完売!

―当初はどんな感じでスタートしたんですか?
DE−我々には常にラジカルでいなければならない使命があった、それは今でも変わらないけど(笑)。創刊号の表紙はニューキャッスルで大きなコンテストが開催されたのでそれを追った結果、工場から上がる煙になった。世界がどれほど汚染されているか、サーファーなら知るべきと考えたんだ。

―ラジカルなメッセージですか?1970年でしょう?
DE−それとサーファーの意見を出来るだけ取り入れる事に努めた。グルメッツからの辛辣な手紙や政治的な意見も載せた。レターズで一番強調したいことを取り上げて話題を提供するんだ。それにしても最近のTRACKSは退屈だ。

−僕から見れば今のTRACKSもラジカルな姿勢を貫いていると思いますが、、、
DE−そうなら良いんだけど。コンテスト、トウインワンでヒュージュサーフ、エアリアル、プロサーファーばかりで全く面白くない。フィロソフィーが感じられないんだ。

―1972年の映画「モーニング・オブ・ジ・アース」は世界で最初にバリ島のウルワツを撮影した映画ですね。
DE−映像でアイデンティティーを確立する事が目的だった。ディレクターでカメラマンのアルビー、私がプロデューサーの役割だった。アルビーは優れたサーファーでカメラマン、私は音楽が専門の普通のサーファー、そのマッチングが良かったんだろう。

―映画同様、サウンドトラックも売れましたね。
DE−当時のサーフィン映画の主流はアメリカにありブルース・ブラウンの「エンドレスサマー」はオーストラリアでも大成功した。我々は大きな影響を受けた。でもそれ以降はどれも退屈なものばかりだった。まるでスポーツアクションフィルムだ、ナレーションもスポーツ中継みたいで賛同できなかった。私はポップスターでないロック、フォーク、ジャズなど幅広いジャンルから良いサウンド、つまりサーフィンにマッチするものを探し使った。

―インディーズですか?
DE−その通り、皆有名ではなかったが映画をきっかけにメジャーになっていったよ。中でもタマン・シャッドは70年代をリードするバンドになった。この写真はアルビーは撮影したものだけど当時のオージーロックはアメリカのような巨大な産業にならない分、源を見失なかったと思うよ。

―初めてのウルワツでの撮影について話して頂けますか?当時はリーシュもなかったですよね?
DE−撮影は1971年、アルビーがバイクでエアポートの先端から発見した。そして我々はジャングルを歩き回りウルワツを見晴らす丘に辿り着いた。2名のサーファーは本当に優れていた。カリフォルニアのラスティー・ミラーは元チャンピオンでビッグウェーバー、もう1名オーストラリアの若手15歳のスティーブ・クーニーも素晴らしく、短いボードでビッグウェーブを乗った。ある晩、我々はウルワツで夜を明かそうと考え砂浜で寝たのはいいか、夜中の2時頃、潮が上げてきて砂浜が消え失せた。我々は真っ暗闇の中、夜が明けるのを岩にしがみついて待たなければならなかったりもした。ラスティーはある時ボードを流したが奇跡的にも無事戻ってきた。僕達は強いカルマを感じた。あの映画には一切車もビルディングも登場しない、アンゴーリーやクレセントへッズで自給自足しているサーファー、ヨガ、ツリーハウス、沢山のヒッピーカルチャーが自然に撮影されたんだ。それが時代だったからね。

―当時のサーファーについて教えてくれますか?
DE−ウルワツの波を最初に乗った2名については話した通りだけど、その他、マイケル・ピーターソン、テリー・フィッツジェラルド、ウェイン・リンチ、ナット・ヤング達がショートボード革命を起こしていた頃で、KEYOの削るボードの影響力が強かったね。ハワイではジェリー・ロペス、リノ・アベリラ、BKといったソウルフルなサーファーに出会えた。彼らはコンテストだけの集中しているタイプではなかったね。

―その後1974年に「クリスタルボアヤージュ」を発表しましたね。
DE−TRACKSや「モーニング・オブ・ジ・アース」の仕事の合間にカリフォルニアへ行ったんだ。世界で一番のサーフィン誌は"サーファー"と信じられていたから実際この目で見たかったんだね。我々の雑誌は完全にストーンしていたから彼らの皆真面目さに驚いた。広告やサーフスター、経済の中にサーフィンがあったんだ。


現在アルビーはNSW州・セントラルコースとで暮らしサーフィンとカントリーライフを送る。毎年インドネシアへは定期的に通いサーフィンをしている。

デビッドは映画作りを続け最近では「ラビット・プル−フ・フェンス」のエクゼクティブプロデューサーとしてオーストラリア映画協会最終作品章を得た。平日はボンダイ、週末はパームビーチで過ごしながら映画を作る。


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