オーストラリア サーフィン情報


PICO "Atomic Butterfly"    

PICOはオーストラリアのシドニー・ノーザンビーチーズで生まれ育った根っからのサーファーだった。10代半ばで家出、ニューポートのビーチに寝泊りしているところを天才サーファー、デレクハインドが自宅に呼び入れた事から全てが始まった。

未成熟ながら独自のスタイルを持つPICOのサーフィンにデレクは本能的なインテンス(熱狂的な何か)を見出した。しかしPICOは10代に有りがちなドロップアウトする理論からコンテストサーフィンを嫌った。デレクは「何をしたい?」と尋ねると「音楽」とPICOは答えた。

デレクはオーストラリア最大手のリップカール社と話を付けた。PICOはバンドと共に世界プロサーフィン・サーキットを回り会場で演奏、アイルランドやイングランド、カリフォルニア、南フランスのホッセガーなどのクラブで演奏する機会も得た。気分を良くしたリップカール社はPICOのサウンドで新作ビデオを制作、オーストラリア国内ではビデオ+サウンドトラックCDセットがサーフショップで販売され完売。

デビューアルバムCD「ゴースト・フラワーズ」も販売されオーストラリア国内チャート入り、サウンドトラック部門では「タイタニック」を抜き1位、ニールヤングのカバー「オールドマン」は全豪シングルチャート入りしてPICOの名はオーストラリア全土に知れ渡った。

ここでPICO=サーファズ・ヴォイスというイメージが浸透した。1998年の事である。つまり普通ではないルートでPICOは音楽界でデビューを果たした。アルバムはフランス、アイルランド、イギリスでも好セールズを記録、1999年、2000年と2度のヨーロッパツアーを成功させた。デレク・ハインドのプロデュースとブッキングでPICOを世に送り出したと言っても過言ではなくデレク自身も詩を提供している。

2001年
オーストラリア最大手のレコード会社のフェスティバルよりセカンドアルバム発売。先行シングルは発売同時にインディーズチャート・トップ3に入り、全国ツアーは前売り完売。しかし全国ツアー後、PICOは全ての活動をキャンセル、理由はレコード会社との対立であった。同時にレコード店から姿を消し幻と化した。しかしこの一件を一番人気のFMトリプル-Jが聞きつけ、再びPICOの曲がラジオでオンエアーされ始める。その一方、シドニー・パームビーチの自宅で曲作りを続けながらアバロンで定期的ライブを続けた。この事件によりPICOはサーファーの間でカリスマ的存在となってしまった。

2002年
本作「アトミック・バタフライ」リリース。完全なインディーズで発売され、アルバム収録12曲全てがサーフィン系のフィルム、番組等で使用されるという異常事態が起きる。90年代一番売れたサーフィンビデオ「ビッゲスト・ウェンズデイ」を制作したティム・バーライセンスとのコラボレーションでビデオ「アトミック・バタフライ」も同年発売される。ティムが撮り貯めた映像とPICOのサウンドを合体させたビデオはサーフショップ限定販売で完売した。

2002年末
PICOはシドニーの人口増加を嫌いヤンバへ越す。PICOが田舎へ移った結果、バンドは解散、ギターのジェフはPICOを追うようにヤンバへ移り住み、ベースのクレイはザ・ビューテイフルガールズを結成。ヤンバには町はないが昔から有名なサーフポイントのアンゴリーで知られている場所だ。現在、曲作りとサーフィンに集中する日々を送っている。2004年かなりの数の曲がレコーディングされている。来年には再びデレク・ハインドがプロデュースしてニューアルバムが完成する噂もある。





PICO アルバム

PICO "Atomic Butterfly"

UD-2002  \2,500(税込み)